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日本205福者殉教者                          記念日 9月 10日

 

 我が国に於ける切支丹宗門の迫害も数百回にわたって行われ、その都度数多の犠牲者を出したが、中にも西暦1622年(元和8年)9月10日の殉教は、大殉教と称せられている。それは史家レオン・パジェーの言葉の如く「致命者の総数が多かった上に、彼等の素質も優秀であった」為である。その日長崎郊外立山に露と消えた人々は総数55名、これを細別すれば外国人宣教師9名、法人司祭1名修道士等、その他彼等を宿し、匿った者、その連累者、教え方及び彼等の家族達などであった。その一人一人の生涯につき詳述し得れば幸いであるが、それは限られた紙面の都合上、到底できぬ事であるから、ことにはその中の主要な人物の略伝をあげるにとどめる。
 まずカルロ・スピノラ師はイタリア人で、1584年イエズス会に入会し、12年後ポルトガルに行き、国外布教を望んで1602年(慶長7年)インドを経て日本に渡来し、長崎、京都など布教を試み慶長16年(1611年)京都に一つの学校を創立したほど政府の信任を得た。それが元和4年12月13日、ドミニコ会員オルスチ神父やその宿主や教え方等と共に長崎で捕らわれ、大村の牢獄に送られ、4年間不自由な獄中生活を忍ばねばならなくなったのである。
 邦人司祭セバスチアノ木村は、平戸の生まれで聖フランシスコ・ザベリオ師に受洗した熱心な信者を父に持ち、同じく殉教したレオナルド木村、アントニオ木村両福者の近親に当たっている人である。12歳から教会の門に入り、19歳でイエズス会の修士となり、暫く教え方を勤め、慶長6年司祭に叙階され、主として京都方面で活動した。彼の捕縛は元和7年6月29日の事で、直ちに大村の牢獄に送られた、なお彼と共に拘引、致命を共にした者に、その教え方トマ赤星、及び宿主アントニオがある。捕り手が最初その宅を襲った時、トマは折りよく外出中であったが、帰って自分の身代わりに同居の一青年が引かれて行ったと聞くと、後追いかけて縛につき、その人を許してもらった。
 ドミニコ会宣教師で大殉教の犠牲になった者は5名、今その名を挙げれば、フランシスコ・モラレス師、アルフォンゾ・デ・メナ師、ヨゼフ・デ・ヒアチント師、ヒアチント・オルファネ師、及びアンジェロ・オルスチ師がそれである。
 その中フランシスコ・モラレス師はスペインのマドリッドの生まれで、ドミニコ会に入って後フィリピンに渡り、マニラで神学の教授を勤め、慶長7年日本に来り、間もなく同会管区長に任命され、慶長14年には聖堂、癩病院を建てたりした。元和元年禁教令が布かれ、数多の宣教師達が放逐された時も、彼は幸いにその難を免れ、此処彼処に潜伏していたが、元和5年3月14日ある人の密告により遂に捕縛された。その時、捕り手の役人は背教者であったが、師の神々しい態度を見るといたく感じ、その前に平伏して奉行の命令なれば許されよと言い残しつつ縄をかけたという。なお、師と運命を共にした人に日本へも師に同行して来、20年近くも肥前や長崎で働いていた同会の兄弟アルフォンゾ・デ・メナ師がある。両師も大村の獄に投ぜられ、後淋しい雪の島に送られた。
 モラレス師の宿主は、もと長崎の奉行であった村山の息アンドレア徳庵で、妻子と共に捕らわれたが、その妻マリアはその時から自宅に囚人同様監禁せられ、後、大殉教の折り宣教師達と主の御為生命を献げる光栄を得た。
 ヨゼフ・デ・ヒアチント及びヒアチント・オルファネ両師はスペイン人で、慶長12年日本に渡来した。ヨゼフ師は暫くドミニコ会の管区長を勤め、わけても京都における布教、教会設立等の功労があった。両師共に元和7年に捕らえられ、種々殉教の苦痛を嘗めたが、オルファネル師はそれを記録して後世に残した。
 アンジェロ・オルスチ師はイタリアの人で、14の年にドミニコ会に入り、スペインからフィリピンに渡り、そこで聖務に携わる事20年余り、元和4年、即ち迫害の最中に日本に来た。その捕縛は前述の如くイエズス会のカルロ・スピノラ師やその宿主コスマ竹屋などと一緒であった。
 フランシスコ会修士でこの大殉教に加わった者にリカルド・デ・サンタ・アンナ、アヴィラのペトロ、及びヴィンセンシオ・デ・サン・ヨゼフの三師がある。
 リカルド師はベルギーのフランダースに生まれ、スペインでフランシスコ会に入り、神学を修めたに拘わらず平修士の身分に甘んじ、フィリピンに渡ったが、慶長19年叙階の秘蹟を受けて司祭となり、日本に来た。しかしその後間もなく禁教令の公布を見、一時追放されたけれど、元和5年再び渡日、窃かに聖務を行い、また数多の殉教切支丹等を或いは慰め或いは励ます事に力を尽くした。彼の宿主は老婆の身で唯一人火炙りの極刑に処せられた篤信のルチア・デ・フレイテスである。日本人でポルトガル人の妻となった彼女はなおその他にも宣教師を宿したので、「宣教師の母」と呼ばれ、捕らわれた時は80の高齢で、一心に殉教の栄冠を希っていたとの事である。アヴィラのペトロ、及びヴィンセンシオ・デ・サン・ヨゼフ両師は、元和5年共に日本に来り、長崎付近で聖務を執る事1年、背教者が狡猾にも告解を装ってその聖務者なる事を知り密告したので、捕らえて等しく大村の獄屋に送られた。その他大殉教の犠牲となった人々は既に述べた通り宣教者の宿主、教え方、その連累者、及び彼等の家族等であるが、長崎奉行長谷川権六は、将軍家の意を迎うべく、切支丹の徹底的絶滅を計り、かよわい婦女子や可憐な幼子までも容赦なく投獄したのである。
 さてこれら55人の人々は、或いは長崎の牢内に、或いは更に惨憺たる大村の獄中に於いて、心静かに死の準備をし、栄えある殉教の日を馘首して待っていた。しかしその日はなかなか来ず、様々の責め苦や食物の欠乏に、身は見る影もなく痩せ衰え、衣服は襤褸となったまま4年の月日を過ごさねばならなかった。然るに元和8年8月19日ズニガ師とフロレス師とが火刑にされたから、彼等もいよいよ天国に赴く時が近づいたと心躍らせる中、長谷川権六は一般切支丹を威嚇棄教させる為、思い切った大刑罰の執行を計画し、元和8年9月8日宣教師、宿主、教え方等25名に火炙りの宣告を、また連累者並びに4年前致命殉教した信者の寡婦や遺児に斬首の宣告を下し、之が執行の日は9月10日、刑場は長崎の立山と定め、御法度の宗門を奉ずる者の末路はかくと通りと、天下の人々に思い知らせようとした。
 処刑の日は恰も土曜に当たったが、殉教者等は前日の金曜に大斉し、聖歌を歌い祈祷を誦え、待望の致命に対する最後の準備をした。この時に当たり、長崎に潜伏中のヴァスケス神父が、憧れの御聖体を棒持して窃かに獄を訪れた事は、どれほど彼等を喜ばした事であろう。やがては親しく拝顔の榮を賜う主が、この世で送り給う最終の祝福は、いやが上にも彼等の意気をさかんならしめたのである。
 土曜日は早朝から役人が大村に来て、殉教者等を刑場へ引き立てて行こうとした。彼等は整然と列を作り、或いは讃美歌を歌い、或いは周囲に群がる観衆に聖教を説きなどしつつ立山に向かった。護送の刑吏約400人、受刑者の各々に一人ずつ付き添い、その頸にかけた縄を手にしている。白い駄馬に乗せられ、一行の先頭に立ったのはスピノラ師であった。
 慶長2年2月5日、日本26聖人の聖血に彩られた由緒深い刑場の立山には、既に火刑用の柱が林の如く立てられていた。薪も山と積まれている。22名の大村組が到着して暫くすると、長崎組の33名も送れ馳せに引かれて来た。彼等は大村組に加わっている自分等の神父達を見ると、さも懐かしげに挨拶した。主人に先立たれたマリア村山は、まだその喪中ではあったけれど、今日は自らの天国への門出を祝う為か美しい晴れ着を身に纏っている。観衆は付近の山々に満ち溢れ、海上にも小舟を浮かべて、殉教者の壮烈な最期を見んものと犇めいている。その人出、実に三万と注せられた。
 上役の命令一下、刑吏達は大村組を竹矢来の中に入れ、それぞれ柱に縛めたが、長崎組の老婆ルチア・デ・フレイテスの特に信心深きを憎み、火焔の犠牲とすべく彼女だけを大村組と共にして同じく柱につけた。
 まず処刑は斬刑の人々から始められた。スピノラ師の宿主なる、寡婦のイサベラもその中の一人であった。彼女は刑場に連れ込まれると、手ぬぐいを振って遠方から師に挨拶した。師には自分が洗礼を授けた彼女の幼子イグナシオが母の傍にいるのが見えなかったらしい。声を張って「イグナシオさんは何処にいます?」と尋ねた。イサベラは我が子を抱き上げて神父に見せながら「ここに居ります。神父様、一緒に殉教の御恵みを頂かせようと思い、連れて参りました」と答え、二人の為師の最後の掩祝を願った。
 刑吏等は打ち落とされた殉教者等の首を、火刑にされる人々の正面に据えられた台の上に曝した。突然「諸々の民よ。主を讃め称えよ」という感謝の詩編を歌う声が場内に響き渡った。カルロ・スピノラ師の声である。やがて他の修士達も、覧衆中の信者達もそれに和して歌った。それは信仰の勝利を祝う凱歌の如く、四方の山に海に轟き渡った。
 いよいよ薪の山に火が放たれた。メラメラと燃え上がる焔の中に、殉教者達は祈祷に耽る者もあれば、竹矢来の外の見物人に最後の説教を試みる者もある。薪は故意と柱から程離れた所に積んであった。それは犠牲者を遠火にかけて炙り、その苦痛を長引かす為に他ならなかった。それでも一時間ほどするとスピノラ師がまず息を引き取った。リカルド・デ・サンタ・アンナ師は瀕死のまま焔の中に跪こうとしたが、傍の一修士が臨終の苦悶に在るのを見ると、よろめき寄って彼を抱き、励ましつつ共に息絶えた。最も長く苦しみ続けたのはヒアチント・オルファネル師で、真夜中に至り「イエズス!マリア!」と高らかに叫んでその霊魂を主の御手に返した。
 奉行は切支丹の人々が殉教者の遺骨、遺物などを取り去らぬようにと、三日の間番卒を刑場を守らせた。そして没収した聖具や、斬首された殉教者の屍を大きな穴に入れて焼き、その灰を海中に投げ捨てさせた。権六はこの大処刑により、切支丹の心胆を寒からしめ、棄教者を数多出し得ると考えたが、その目算は見事に外れ、却って人々は殉教者達の雄々しい最期に感じ入り、信者は益々信仰を堅め、未信者の聖教に帰依する結果を招いたのであった。

教訓

 我が国切支丹宗門史に名高いこの大殉教に於いては、数多の宣教師を匿い宿したという廉で無惨にも極刑に処せられた。彼等はもとより禁教の折り伴天連を泊めた以上はこの事あるを十分承知していた。それにも拘わらずこれを敢えてしたのは。司祭をキリストの代理者として崇める心と、殉教を熱く望む心と、つとめて言えば深い信仰を有していたからに外ならない。我等は司祭に対する尊敬に於いて信仰に対する熱情に於いて、彼等に学ぶべき所が多々あるのを忘れてはならぬ。